名誉市民選考委員会への諮問や新潟市議会での議決を経て、故・佐野藤三郎さんを新潟市で4人目の名誉市民に選定しました。73年ぶりの選定となります。佐野さんは、類まれな行動力と統率力で、今日の新潟の礎を築いた人です。今回はそんな佐野藤三郎さんの功績を紹介していきます。
【名誉市民とは】
市民や新潟市に関係の深い人物のうち、学術や技芸、文化の進展または新潟市の発展に多大な貢献をし、その功績が顕著で市民から深く尊敬されている人に与えられる称号のことです。
越後のお父っつぁま・佐野藤三郎ってどんな人?
佐野藤三郎にまつわるエピソードを紹介
※参考:「まんが にいがた偉人伝 佐野藤三郎」
ちょっと福井へ行ってくる
昭和39年に発生した新潟地震で、亀田郷は大きな被害を受けました。亀田郷の被害と、昭和23年に福井で起きた大地震の被害が酷似していることを知った佐野さんは、復旧作業の最中、ひとりで福井へ向かいました。そこで学んだ国の災害査定の知識をいかし、 国や県へ粘り強く説明と陳情を繰り返したことで、親松排水機場が建設され、亀田郷は新潟地震以前よりもよい状態へと変わるのです。
したたかな武士
高度経済成長期に農地が売られて都市開発が進み、農業の衰退が不安視されるなか、佐野さんはむしろその活力を農業や亀田郷のために取り込もうとしていました。昭和を代表する作家・司馬遼太郎は、亀田郷を訪れて佐野さんに会い、「都市化の波に感傷的に反対することはすこしもなくむしろ現実をふまえときに利用したり逆手にとったりして亀田郷に理想的な農村地帯をつくりあげようとしている点したたかな武士といえる」と評しました。
この男は「本物」
当時の中国の首相から「亀田郷の農業技術を学びたい」と要請された佐野さん。昭和54年、調査のため中国の三江平原を訪れました。国交が正常化したばかりで、現地の中国人技術者たちは 日本人である佐野さんたちによそよそしい態度。そんななか、佐野さんが田んぼに入って稲を触り、中国人技術者たちに話しかけると、彼らの態度が一変。言葉が通じなくても行動で、農業に携わる者として佐野さんは「本物」だと認められたのでした。
佐野藤三郎の人生をマンガで楽しく読んでみよう
佐野さんの一生を描いたマンガを、新潟市内の図書館で貸し出しています。
問:ほんぽーと中央図書館 tel.025-246-7700
『まんが にいがた偉人伝 佐野藤三郎』
企画・監修:(公財)食の新潟国際賞財団
シナリオ:小林裕和
マンガ作画:シャガラ
新潟市内図書館所蔵数:21冊
3つの分野でのおもな功績
農業の功績
多くの土地改良事業に取り組み、「芦沼(あしぬま)」と呼ばれた湿田を日本有数の穀倉地帯に変えたことで、新潟市の農業の発展に大きな功績を残しました。新潟地震の時には、震災からの復興に尽力し、農地や農業用施設の復旧などに取り組みました。排水改良の取り組みを通じて、浸水 対策の面で市民の安心・安全の確保にも大きく貢献しました。
まちづくりの功績
昭和中期から、急速な都市化の進行を背景に農地転用が急増していくなか、まちの発展と農業の健全な調和に向け、都市と農村がともに発展できる地域づくりに取り組みました。この理念は、現在の「都市と農業が調和する新潟市」の形成・ 発展につながるなど、新潟市のまちづくりに大きな影響を与えました。
国際交流の功績
中国政府からの要請を受けて、黒龍江省三江平原の農業開発に積極的に協力し、中国の大食料生産基地の実現に向けて奔走しました。この取り組みをきっかけに、「新潟県日中友好協会」や「日本海圏経済研究会」を設立するなど、環日本海を軸とした経済交流の流れを作り、新潟市の国際交流の先駆者として大きな功績を残しました。
新潟の発展に尽くした佐野藤三郎
佐野藤三郎さんの経歴を年表で紹介します。
(生:大正12年11月25日/没:平成6年3月25日)
新潟市の名誉市民を紹介
これまで名誉市民に選ばれていたのは3人。いずれも昭和26年3月に選ばれました。
會津八一(生:明治14年8月1日/没:昭和31年11月21日)
昭和21年から新潟市に居住し、夕刊新潟社の社長を経て、新潟日報社社賓として社会文化面に貢献しました。東洋美術史、特に奈良美術に関する国内の権威として、その深い見識で学界に影響を与えました。また書家・歌人としても知られ、近代を代表する芸術家として高く評価されています。
荻野久作(生:明治15年3月25日/没:昭和50年1月1日)
明治42年に東京帝国大学医学部を卒業後、同大学産婦人科教室で研究を続け、明治45年に竹山病院産婦人科医長に就任。臨床の傍ら産婦人科の研究を続けました。研究は受胎に関するものが多く、50編を超える論文を記述しました。なかでも、排卵期と受胎期に関する研究は画期的学説として著名であり、日本医学界の至宝ともいわれています。
澤田敬義(生:明治6年12月3日/没:昭和27年2月7日)
明治43年に新潟医学専門学校が創立された際、同校の内科学教授となり、大学昇格にも尽力しました。大正14年に新潟医科大学の学長に任命され、長年にわたり医学界に尽くしました。特に「つつが虫病」や新潟県の地方病に関する研究は、学界に大きな影響を与えました。優れた人格と学識経験で学生を育成し、優れた人材を輩出しました。
DATA
- 問い合わせ先
- 新潟市秘書課
- 問い合わせ先
電話番号 - 025-226-2045
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市報にいがた 令和6年5月5日発行 2814号